本日もお越し頂きありがとうございます。
ウイスキーを愛する料理人Yaffeeです。
今回のお話は
『美味しいウイスキーにある
ストーリー・エピソード!!』
についてです。
面白い!!感動した!!など、
美味しいウイスキーには、それぞれにストーリーがあります!!
その一つ一つを知るとウイスキーが美味しいだけではなく、より深いものになるというは僕だけではないはず。
特にNHK連続ドラマ「マッサン」からウイスキーに興味を持った人、
ウイスキーによりはまった人は多いのではないでしょうか?
ただウイスキーには、ほかにもたくさんのストーリーがあります!!
そこで今回は特に僕が好きなウイスキーのストーリーをまとめてご紹介します。
よりウイスキーに興味を持ってもらえたらうれしいです。
- 様々なウイスキー銘柄に隠されたストーリーがわかる
美味しいウイスキーには、ストーリーがある
美味しいウイスキーには、様々なストーリーがあります。
ウイスキーの誕生秘話だったり、そのウイスキーが人気になった逸話だったり……
一つ一つのストーリーを知ると、ウイスキーの新しい魅力が発見できるのではないでしょうか。
その中でも僕が好きなストーリーは……
- 隣の別荘は英国女王のものだった
ロイヤルロッホナガー
- ジャガイモ飢饉時に多くのアイルランド人を救った蒸留所
オーヘントッシャン
- ニッカウヰスキーがバブル期に買収した蒸留所。地元民の反応は???
ベン・ネヴィス - 失敗から家族経営にこだわる!
グレンファークラス - 自由で奇抜な発想でイタリアNo.1のブランドに
グレングラント - もともとバイトで入ったら、いつの間にかスコッチ史上初の女性所長
ラフロイグ - 幽霊が出る蒸留所!?
グレンロセス - 伝説の密造家を逮捕した人がその意思を引き継いで建てた蒸留所
ハイランドパーク - ギネス記録を持つ猫がいた蒸留所
グレンタレット - 家族の絆が世界No.1のシングルモルトを作る
グレンフィディック - 禁酒法時代に本物のウイスキーを届け続けた
カティーサーク - ロマンチックすぎるストーリー
フォアローゼス - ロックの生き方を貫いた創業者
ジャックダニエル
隣の別荘は英国女王のものだった
ロイヤルロッホナガー
ジョニーウォーカーブルーラベルの主要原酒として有名なモルトウイスキー。
この蒸留所は1845年創業しました。
その3年後のお隣のバルモラル城を誰かが購入したという情報を聞きます。
創業者:ジョン・べグはそのお隣さんに自身のウイスキーをご紹介しようと考えます。
さっそく「一度うちの蒸留所に来ませんか?」といった内容の手紙を送ったところ……
翌日訪問してきたのは、なんとヴィクトリア英国女王一家。
バルモラル城は英国王室の夏の離宮として購入されたみたいです。
それ以前まではニュー・ロッホナガーと名乗っていたようですが、
このことがきっかけで英国王室御用達をいただき、ロイヤルロッホナガーと改名。
親子三代にわたってロイヤルワラントをいただいたそうです。
ちなみにヴィクトリア女王はボルドーワインにロイヤルロッホナガーを入れるのが好きだったのだとか。
一度試してみたいですね。。。
ジャガイモ飢饉時に多くのアイルランド人を救った蒸留所
オーヘントッシャン
オーヘントッシャンは、スコットランドでは珍しい3回蒸留を行うモルト蒸留所です。
一説によると1800年頃にアイルランドからの移民がこの蒸留所を立てたといわれています。
もしかしたらローランド伝統の3回蒸留はアイルランド譲りかもしれないですね。
創業当初からずっと3回蒸留を守り続けていました。
1845年ごろ、隣の国アイルランドでは「ジャガイモ飢饉」が問題となります。
貧困が社会問題だったアイルランドは大打撃。
多くの人たちがアメリカやイングランドに亡命しました。
もちろんイングランドに近い、スコットランドのローランドも難民を受け入れます。
その時にアイルランドのウイスキーに近い作り方のオーヘントッシャン蒸留所には、アイルランド人たちが押し寄せたそう。
オーヘントッシャン蒸留所は多くのアイルランド人を大量雇用。
アイルランド難民たちに職を与えたそうです。
[sitecard subtitle=この蒸留所について url=https://www.yaffee.work/entry/auhentoshan target=_blank]
ニッカウヰスキーがバブル期に買収した蒸留所。地元民の反応は???
ベン・ネヴィス
ベン・ネヴィスはスコットランド最高峰の山からつけられた名前です。
1825年、「ロング・ジョン」の愛称で知られていたジョン・マクドナルドが創業します。
このジョン・マクドナルドは西スコットランド王国の領主の子孫。
19世紀には約230人もの従業員を抱える、当時にして大規模な蒸留所だったそうです。
ただ全員がウイスキーの製造にかかわっていたのではなく、製材所、工作所。
さらに蒸留工程で出てくる「ウイスキー粕」を餌に200頭ほどの牛を飼育する牧場も持っていたそう。
その分の従業員が必要だったといわれています。
しかし1890年代後半からのウイスキー不況が原因で、休止と再開を繰り返す蒸留所となっていまします。
1989年になり、スコッチ業界の渦中に入って様々な情報を仕入れようと、ニッカウヰスキーはベン・ネヴィス蒸留所を買収します。
しかし当時の日本はバブル期。
多くの日本企業が海外企業を買収していたため、日本は海外からあまりいい印象がありませんでした。
日本の企業が地元のウイスキー蒸留所を買収しては地元民から反感を買うだろう。
そう思ったニッカウヰスキーはスコットランドにダミー会社を立てて、そこがベン・ネヴィスを買収する形にします。
しかし、
すぐにニッカウヰスキーが買収したことがバレてしまいます!!!
地元民からの批判を恐れていたニッカウヰスキーでしたが……
意外にもニッカウヰスキーがベン・ネヴィスを買収したことに反感はなかったそう。
逆に、
「日本でスコットランドのお酒造りを本格的に作っているニッカウヰスキーが、
俺らの地元の蒸留所を救ってくれた!!」
と称賛されたそうです。
それにはノート一つでスコッチウイスキーのすべてを盗もうと真剣にウイスキーを学んでいった先代竹鶴政孝の存在、
その妻リタの存在が大きかったと二代目社長竹鶴威さんは語っています。
参考ページはこちら
↓↓↓
[blogcard url=https://www.nikka.com/80th/story/scotland/page4.html]
[sitecard subtitle=この蒸留所について url=https://www.yaffee.work/entry/bennevis target=_blank]
家族経営で守り続ける。こだわりのウイスキー
グレンファークラス
シェリー樽熟成のモルトウイスキーにこだわるグレンファークラス蒸留所。
スコットランド最古の家族経営の蒸留所としても知られています。
1836年、ジョン・グラントが創業しますが、実は一度だけ親族外の人と共同経営をした時期がありました。
1890年代三代目のジョージ・グラントは当時のブレンダーのパッチソン・エルダーと共同経営を行います。
しかし、1898年グレンファークラスは倒産します。
この時ウイスキー業界全体が大打撃を受けるウイスキー不況が起きます。
グレンファークラスもその影響を受けたわけです。
何とか持ち直したグレンファークラスは「もう二度と外部の人と共同経営を行わない!!」と誓ったそう。
そこから完全に家族経営に力を入れるようになります。
ただ、1969年グレンファークラスはウイスキーの大手ブレンデッド会社のモルトから外されることになってしまいました。
逆境にもかかわらずグレンファークラスはこれを逆手に取り、
シングルモルト用のストックを増やし、自社のみで勝負できるシングルモルトウイスキーへのこだわりを強くします。
これが他のボトラーズにもブレンデッド会社にも、樽のままウイスキーを一切販売しないというこだわりにつながりました。
逆にモルトファンから多くの支持を得ました。
[sitecard subtitle=この蒸留所のストーリーをもっと詳しく知りたい方へ url=https://www.yaffee.work/entry/glenfarclas target=_blank]
自由で奇抜な発想でイタリアNo.1のブランドに
グレングラント
グレングラントは1840年ジェームズとジョンのグラント兄弟が創設しました。
兄のジェームズは法律など頭を使ったことが得意。法律家や政治家として活躍します。
弟のジョンは穀物商の傍らアベラワー蒸留所で蒸留技術を学びます。
つまり兄は頭脳担当、弟は技術担当だったそうです。
この二人によって、グレングラント蒸留所はできました。
特に兄のジェームズはスコットランド・スペイサイドに鉄道を敷いた功績で貴族となっています。
後にこの鉄道を使ってスコットランド以外で初めてシングルモルトウイスキーを販売したそう。
そしてこのジェームズの息子ジェームズ・ザ・メジャー・グラントが2代目に就任するのですが、
彼は典型的なカントリージェントルマン。人生を謳歌し、世界各国を遊び歩いていたそう。
ところがいざ就任すると、世界各国を渡り歩いた経験を生かして、自由で奇抜なアイディアを実践していきます。
- グレングラントの特徴であるライトでクリアな味わいを生み出した。
- スコッチ史上初、蒸留所に電気を導入!!
- 作るだけの蒸留所から「魅せる蒸留所」へ
グレングラントの味わいをより洗練された味わいに変え、当時まだ少なかったライトでクリアなタイプのグレングラントを作り上げました。
その味わいの元となった改革が、独自の形の蒸留器(ポットスチル)を導入したことでした。
ほかにも電力の導入や趣味からイングリッシュガーデンを蒸留所に作り、それがまた話題となるなど
世界を遊び歩いたメジャー・グラントだからこその改革を行っていきました。
この改革が、現在のグレングラントの地位を確立しているといっても過言ではないと思います。
[sitecard subtitle=この蒸留所のストーリーをもっと詳しく知りたい方へ url=https://www.yaffee.work/entry/glengrant target=_blank]
幽霊が出る蒸留所!?
グレンロセス
キリスト教の大聖堂のように開放的なグレンロセスのスチルハウス。
実は、一時期このスチルハウスに幽霊が出ることで有名なのだとか。
1980年代にスチルハウスを拡張工事して以来、ナイトシフトの職人たちが幽霊を見るようになりました。
その幽霊は、“バイウェイ”という黒人だそうです。
地元では有名な人物だそうで、グレングラント蒸留所2代目“メジャー・グラント”の執事をしていました。。
1972年に亡くなった彼は、グレンロセスすぐ横の共同墓地に葬られています。
幽霊となった彼の姿を、グレンロセスのナイトシフトの職人たちがたびたび目撃。
みな怖がり、ナイトシフトには入りたがらなくなりました。
超常現象の第一人者(セドリック博士)に依頼し、霊が出るようになった原因を探ることになります。
バイウェイのことを全く知らなったセドリック博士。
ところが、誰にも教わることなくバイウェイの墓にたどり着いたそう。
そして、バイウェイがグレンロセスの新スチルハウスに出すようになった原因を探りまじめます。
実は、
グレンロセスの新スチルハウスは、霊となったバイウェイの散歩コースだったそう。
「散歩コース」を邪魔されたバイウェイが夜な夜なグレンロセスに現れていたそうです。
セドリック博士が「散歩コースを変えてくれないか」と交渉して以来、グレンロセスにバイウェイが現れなくなりました。
そして蒸留所では、バイウェイの慰霊祭を開くことにし、以来グレンロセスの職人たちは、
「トゥーバイウェイ(バイウェイのために)」
といって乾杯するのが習わしとなったそうです。
嘘か本当か
信じるかはあなた次第です。(笑)
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伝説の密造家を逮捕した人がその意思を引き継いで建てた蒸留所
ハイランドパーク
ハイランドパークは、1798年にデイヴィット・ロバートソンが設立しました。
デイヴィットが蒸留所を建てた場所は、『伝説の密造家』と呼ばれる“マグナム・ユウンソン”の密造所があった場所だそうです。
かつてスコットランドのウイスキー業界は、イングランドからの酒税額が高く、密造するところが多かったそうです。
特に、スコットランドでもスペイサイドや本土近くの島々には密造所が多かったそう。
その中でもオークニー諸島メインランド島で密造を行っていたマグナムは、教会の長老と肉屋という表の顔を持つ密造家だったそうです。
マグナムは、教会の説教壇の下のウイスキーを隠していました
査察団が来るという情報をつかむと、自宅に持ちかえり白い布をかぶせて天然痘患者を装ったそうです。
ある日、マグナムの自宅を急襲した視察団が見たものは……
「天然痘」で亡くなった方の葬儀の様子
マグナスは白布の頭と見られる方で熱心に聖書を読み、参加した村人たち(エキストラ)は「天然痘で死んだ」と嘆いていたそう。
このようにして視察団を追い払っていたそうです。
マグナムは、悪名高くも勇敢で勤勉なオークニー人を象徴するような人だったといわれています。
そんなマグナムを逮捕したのが、ハイランドパークの創業者であり、徴税官であったデイヴィット・ロバートソン。
まるで彼の意志を継ぐかのように蒸留所を創設しました。
[sitecard subtitle=この蒸留所のストーリーをもっと詳しく知りたい方へ url=https://www.yaffee.work/entry/highland-prak target=_blank]
ギネス記録を持つ猫がいた蒸留所
グレンタレット
昔スコットランドの多くの蒸留所は、害獣となるスズメやネズミの対策として猫と飼っていました。
グレンタレットも猫を飼っていた蒸留所の一つ。
猫は、ハンティングとしてスズメやネズミを捕まえる習性がありました。
ただモルトには興味がないため、蒸留所のモルトの番犬ならぬ番猫といった存在だったそう。
そういった番猫とのことを”ウイスキーキャット”といいます。
当時、ウイスキーキャットは蒸留所の従業員登録までされていたそうです。
その中でも特にネズミを捕まえたということで、ギネスブックにまで載った猫が『タウザー』です。
彼女は、生涯に2万8899匹のネズミを捕まえたそう。
ただこの記録は蒸留所の従業員がカウントし始めてからの数字。
実際にはもっと多かったそうです。
多くのネズミを捕まえ、従業員だけでなく蒸留所を訪れるお客さんからも愛された『タウザー』。
彼女の銅像は蒸留所のシンボルとして飾られ、今でも蒸留所を訪れるお客さんを迎えてくれます。
[sitecard subtitle=この蒸留所のストーリーをもっと詳しく知りたい方へ url=https://www.yaffee.work/entry/glenturret target=_blank]
家族の絆が世界No.1のシングルモルトを作る
グレンフィディック
創業者はウィリアム・グラントで、
「鹿の谷で蒸留所をオープンさせる!!」という長年の夢をかなえた形で創業しました。
貧しい仕立て屋の息子として生まれたウィリアム・グラント。
いつしかウイスキーの魅力に取りつかれ、モートラック蒸留所で20年間働きながら、ウイスキーづくりについて学びます。
この時から「自分の蒸留所を持ちたい!!」という気持ちは強かったそうです。
しかし、ウィリアム・グラントの年収は100ポンド+自由教会の聖歌隊員の報酬7ポンド。
この収入で妻と9人の子供を支えていたので、決して楽な生活ではありませんでした。
ウィリアム・グラントは妻と子供たちを養いながら、節約に努めます。
そして長い年月をかけてこつこつと資金を集め、ついに念願の土地を手に入れました。
そして蒸留所設立へ動き始めます。
ただ、土地を買うことで精いっぱいだったウィリアム・グラントにとって石工や大工を雇う資金力はありません。
近くのフィディック川から家族総出で石を積み上げ、蒸留所を建設したのだとか(一人だけ石工職人を雇ったそうです)。
日数にして371日、積み上げた石は約75万個だそうです。
グラント家族がつくった石の壁は、びっくりするほど頑丈に仕上がっているそ
そしてもちろん、蒸留設備を新調するお金もありません。
糖化槽や発酵槽は何とか中古で買い集めます。
そしてスチルはたまたま同じスペイサイドのカーデュ蒸留所が、
ウィリアム・グラントの人柄に惚れ、古くなったスチルを安く譲ってくれたそうです。
こうして買いそろえた少ない設備で、1887年12月25日に初めての蒸留が行われました。
初めての蒸留の時は家族みんなで喜んだんでしょうね。
今でも「家族で力を合わせる」ということがグレンフィディックの伝統。
130年以上たった今でも家族経営を守り続けています。
[sitecard subtitle=この蒸留所のストーリーをもっと詳しく知りたい方へ url=https://www.yaffee.work/entry/glenfiddich target=_blank]
禁酒法時代に本物のウイスキーを届け続けた
カティサーク
カティサークは禁酒法時代にあえてアメリカ市場に向けて、
ライトな飲みやすいタイプの原酒がブレンドされ作られました。
このライトなテイストとネーミング、そして印象的な緑のボトルに山吹色のラベルで、
リリース直後からイギリス中で話題に。
そして、すぐに禁酒法時代のアメリカへ密輸されていきます。
当時アメリカでは、粗悪なウイスキーが流通していました。
その中には、「アイリッシュウイスキー(当時一番人気)」や「スコッチ」と冠したものも多かったそうです。
粗悪なスコッチがはこびる中、「本物のスコッチ」としてウィリアム・マッカイという船長がアメリカに「カティサーク」を密輸します。
酒を扱っていたギャングたちに「本物の味」をつきつけ、
ついにギャングたちから
「マッカイの持ってくるスコッチは本物!!」
とまで言われるようになったそう。
このことからマッカイ船長は「リアル・マッカイ」の愛称で呼ばれていたそうです。
その後禁酒法が明け、アメリカで絶大な人気を誇るスコッチウイスキーになっていきます。
そして、日本でも愛飲されるスコッチウイスキーとなっていきました。
[sitecard subtitle=この蒸留所のストーリーをもっと詳しく知りたい方へ url=https://www.yaffee.work/entry/cutty_sark target=_blank]
ロマンチックすぎるストーリー
フォアローゼス
ある日、フォアローゼスの創業者ポールは、舞踏会に参加していました。
その舞踏会で、とある美女に一目ぼれしてしまいます。
いてもたってもいられなくなったポールはお酒の力を借りることにしました。
お酒を飲み、勇気を振り絞ってその美女に声をかけ、そしてプロポーズします。
ただ彼女から開けってきた答えは……
「どうか次の舞踏会まで返事はお待ちください。
もしプロポーズをお受けするなら、次の舞踏会の時に薔薇のコサージュをきます。」
そう答えたそうです。
そして数日後……
次の舞踏会の時がやってきます。
ポールにとっては、
舞踏会のことよりも彼女の「コサージュ」のことしか頭になかったのではないでしょうか?
そして彼女がポールの前に現われます。
胸には4輪のバラのコサージュをつけて……
彼の恋は見事に実りました。
そしてこの物語からブランド名は「フォアローゼズ」に、
ラベルには2人をつないだ4輪のバラが描かれることになりました。
[sitecard subtitle=この蒸留所のストーリーをもっと詳しく知りたい方へ url=https://www.yaffee.work/entry/four-roses target=_blank]
最後に……
ほかにもウイスキーのストーリーは様々あります。
また蒸留所ごと詳しく解説していけたらと思います。
それでは良いウイスキーライフを!!
また次回もよろしくお願いします!!
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コメント
コメント一覧 (6件)
BEN NEVISの話はいいですね(;ω;)
竹鶴氏はスコットランドの蒸留所にて、当時の蒸留技師達がやりたがらないような、蒸留釜の清掃といった汚れ仕事も買って出たというエピソードが残ってますので、やはり真摯に打ち込む姿は人を動かすんですね。自分がとあるホテルで飲んで以来、好きになった安物スコッチのNEVIS DEWの生みの親でもありますね。
オーヘントッシャンって3回蒸留とあるんですが、さすがのスコッチも3回も蒸留すると、自分が苦手なアイリッシュのような飲みやすすぎるウイスキーにならないか心配です(^^;;
しかしお酒造りは、涙あり笑いありの様々なエピソードがあって、そんなお話を酒の肴に、お酒を楽しむと至極の時間が流れます(〃ω〃)
id:okatruck さん>
ウイスキーに限らず、お酒のストーリーっていいですよね!!
効いていると飲みたくなってしまいます!(笑)
id:zarugawa さん>ありがとうございます!!ぜひぜひ!お酒と一緒に楽しんでください!1
id:tetsu3423 さん>コメントありがとうございます!!
オーヘントッシャンの話実はまだまだあるので今度は蒸留所ごとまとめていきます!
その時もまたよろしくお願いいたします!
id:hukunekox さん>コメントありがとうございます!!ニッカの話いいですよね!!
id:kumimamakun さん>コメントありがとうございます!!庭でお酒を飲むのにいい季節になってきましたね!!ぜひこんな話と一緒に楽しんでください!!