スコッチウイスキーの歴史は、戦争や圧政などの逆境に立ち向かいながら築かれた壮大な物語です。
イングランドからの重税に対抗するために密造が盛んに行われ、それを隠す手法として樽熟成が導入されました。
1823年の酒税法改正後、政府公認の蒸留所が増加し、スコッチウイスキーは着実に発展していきました。
しかし、供給過多によるウイスキー不況も経験。
現在、クラフトウイスキーブームがスコットランドにも広がり、小規模蒸留所が数多く誕生しています。
スコッチウイスキーに刻まれた興りと栄光の旅を、年表で振り返っていきましょう。
スコッチウイスキーの歴史
スコットランドは、イングランドに侵略され続けてきました。
今でも時々独立運動が起きるほど、イングランドとスコットランドには根深い溝があります。
そしてスコッチウイスキーの歴史は、イングランドとスコットランドの歴史と深く深く関わってくるのです。
イングランドとスコットランドの歴史について、少し詳しく知りたい方は過去の記事(壮絶なスコットランド史。英雄ウィリアム・ウォレスと解放王ロバート・ブルース)をご参照ください。
スコッチウイスキー元年
「修道士ジョン・コーに8ボル(約500㎏)の麦芽を与えてアクア・ヴィテを造らしむ……」
1494年、スコットランド王室財務係の文書に初めてスコッチウイスキーが登場します。
アクア・ヴィテとは、「生命の水(ラテン語)」という意味で「蒸留酒(ウイスキー)」のことを指します。
この文献が書かれた1494年が「スコッチウイスキー元年」とされていますが、この文献以前にも蒸留酒は作られていたことでしょう。
1172年、イングランド王ヘンリー2世がアイルランドに侵攻した時、兵士が「ウスケボー」という蒸留酒についての報告があったとされています(原典は不明)。
紀元前4~3世紀と思われるメソポタミア北部で蒸留器が出土されていて、紀元前1300年ごろのエジプトではナツメヤシの蒸留酒が売られていたそうです。
スコットランドには11世紀~12世紀ごとに蒸留技術も伝わったという説もあります。
563年 | 聖コロンバが北アイルランドからスコットランドに布教に訪れ、アイオナ修道院を建てる。 この頃エール(ビール)が記録される。 |
790年ごろ | ノルマン人(ヴァイキング)の襲来が始まる。オークニー諸島が領有される。 |
843年 | アルバ王国が成立。「運命の石」が伝承される。11世紀以降にアルバ⇨スコシア⇨スコットランドへと変遷。 |
1172年 | ヘンリー2世がアイルランドに侵攻。兵士が「ウスケボー」の存在を報告。 |
1040年 | マクベス、ダンカン1世より王位を奪う。(シェイクスピアで有名) |
1156年 | ヴァイキングとスコット族の混血である「サマーレッド」がアイラ島北岸でヴァイキング軍を破る。 |
1263年 | ラーグスの戦い。スコットランド王アレクサンダー3世がヴァイキング軍ホーコン4世を破る。「アザミの伝説」誕生。 |
1296年 | イングランド王エドワード1世がスコットランド侵攻。スコットランド王国消滅。「運命の石」がロンドンに持ち去られる。(返還されたのは1996年) 詳しくは…… |
1297年 | スターリングブリッジの戦い。ウィリアム・ウォレスがイングランド軍に勝利。翌年ファルカークの戦いにて敗北。 |
1314年 | バノックバーンの戦い。ロバート・ザ・ブルース王がイングランド王エドワード2世に勝利。 1328年にエジンバラ・ノーサンプトン条約にて「スコットランド王国」が承認される。 |
1336年 | サマーレッドの子孫、アンガス・オグの息子が「ロード・オブ・ジ・アイルズ(島々の君主)」を名乗る。 1493年まで半独立王国が築かれる。 |
1494年 | スコットランド王室財務省の記録にアクア・ヴィテの記述。文献としてスコッチが初めて登場。 「修道士ジョン・コーに8ボルの麦芽を与えて、アクア・ヴィテを作らしむ……」 |
「アードベッグ ロード オブ ジ アイルズ
16世紀~穀物原料の蒸留酒が一般化
1534年に国王至上法により英国国教会が成立。
ローマ教会とは分裂したイングランドの教会ができることなりました。
カトリック教会や修道院の閉鎖・解散が行われたため、酒造りが聖職者の手から民間へと移行。
1550年代には、蒸留酒が「飲料」として一般化していきます。
以前は、ウイスキーの前身である「アクア・ヴィテ」は「薬」として修道院で作られていました。
ところが、修道院が解散されると蒸留技術は民間へと伝播。
蒸留技術が各段に発達していくこととなります。
1555年には、スコットランド議会の法律でアクア・ヴィテが穀物の蒸留酒として初めて登場します。
1505年 | エジンバラの外科医・床屋組合に医薬品としてのアクア・ヴィテの独占製造権が与えられる。 |
1534年 | 国王至上法により英国国教会が確立し、ローマ教会と分裂。カトリック教会や修道院が解体されたことによりお酒造りが民間へと進む。 |
1550年代 | 蒸留酒が薬から飲料用へ一般化する。蒸留器や冷却管が発達。 |
1555年 | アクア・ヴィテがスコットランド議会の法律に穀物原料のお酒として初登場。 |
1579年 | 穀物不作によりアクア・ヴィテの製造禁止。 |
16世紀後半 | スコットランド西部からアイルランドへ「アクア・ヴィテ」の輸出取引が行われていた。 |
ウイスキー密造時代
1603年イングランド王エリザベス1世が死去。
次の王にはスコットランド王であったジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位します。
これにより、スコットランドとイギリスは「同君連合」が成立することとなりました。
1707年には、スコットランドはイングランドに併合され、グレートブリテン王国が誕生。
スコットランド議会は廃止となりました。
1644年にはスコットランド議会がアクア・ヴィテ(ウイスキー)に初課税がされていましたが、併合後は恒常化。
独立戦争(1745~46年)の敗北の結果、バグパイプやキルトの着用が禁止されるなどの弾圧が行われることとなりました。
イングランドの麦芽税も導入、フランス革命後からナポレオン戦争時期にかけて戦費補充のための酒税引き上げ……
弾圧と重税によりスコットランドでウイスキーを密造する密造所が増加します。
ウイスキーの密造は、イングランドへの反抗心・統治に対する抵抗という意味合いもあったわけです。
1777年にはエジンバラの公認蒸留所8件に対して、密造所は400件以上あったといわれています。
税務官による摘発を逃れるために、ウイスキーを隠す必要がありました。
そこで活用したのが、港にたくさんあったシェリーの運搬用空き樽です。
当時は、スペインからシェリー酒を運ぶとき、オーク製の樽に詰めて運搬していました。
この樽はワンウェイ樽のため、イギリスの主要港には運搬に使われた樽がたくさんあったといわれています。
その樽に密造酒を詰め隠していました。
そしてしばらくしてから開けたところ琥珀色のまろやかなお酒となっていたのです。
これが、ウイスキーに熟成の概念が生まれたきっかけといわれています。
1822年にイングランド王ジョージ4世がスコットランドへ訪問。禁制のグレンリベットをご所望。
この時のジョージ4世は、スコットランドの民族衣装「キルト」を身にまとい、片手にはウイスキーというスコットランドに染まり切った姿をしていたといわれています。
王の行動には、イングランド政府も頭を悩ませたことでしょう。
1823年に酒税法改正。異常に高かったライセンス料が妥当な税額へと調整されました。
そして1824年にグレンリベットが新酒税法のもと政府公認第一号蒸留所となります。
当時は、グレンリベットを「裏切者」とみる同業者が多かったそうですが、グレンリベットが合法蒸留所として成功するとほかの蒸留所も続くようになりました。
1603年 | スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位。2か国間で「同君連合」が成立する。 |
1618年 | スコットランド・ハイランドのクランチーフテンの葬儀で大量の「ウイスゲ」が飲まれていたと記録。 |
1627年 | スターリングシャーにてロバート・ヘイグが蒸留業を開始。のちにジョン・ヘイグ社に発展。 |
1635年 | オールドパーのモデル”トーマス・パー”が死去 |
1642年 | 清教徒革命 |
1644年 | スコットランド議会がアクア・ヴィテ(ウイスキー)へ初課税 |
1689年 | カローデンのダンカン・フォーブス所有蒸留所がジャコバイト(スコットランド反乱軍)による焼き討ちにあう。その補償として免税特権を持つフェリントッシュ蒸留所が設立。 スピリッツへの課税などの規制が緩和するが、ジンの被害が拡がる。 |
1707年 | スコットランド議会が廃止。イングランドに併合される。1713年にはイングランドの麦芽税が1/2の税率で導入される。 |
1715年 | 「Whisky」の単語が初めて英語で登場したとされている。 |
1725年 | 麦芽税がイングランドと同じ税率になる。グラスゴーで暴動発生。 |
1746年 | カローデンムーアの戦い。ジャコバイト(スコットランド)軍敗北により、バグパイプやキルトが禁止。ハイランドで密造が盛んに。 |
1759年 | ロバート・バーンズがアロウェイに誕生。 |
1775年~1783年 | アメリカ独立戦争 |
1784年 | ウォッシュ(発酵もろみ)の量に対して課税が基本として、蒸留器の容量に対して課税する措置が採用される。 |
1786年 | スコッチ蒸留所法が制定。原料穀物の輸入して蒸留することやイングランドへの輸出に対して追加税が設定される |
1793年 | 対仏戦争により、ローランドで酒税が3倍になる。1800年にはその12倍にもなり、密造が急増。 |
1814年 | ハイランドで容量500ガロン(約2270ℓ)、ローランドで2000ガロン(約9100ℓ)以下の蒸留器が禁止。 |
1816年 | スチールスチル法が制定。ハイランドのスチルサイズを撤廃。40ガロン(約180ℓ)以上であれば使用可能に。 ハイランドクリアランスが本格化し、スコットランドで10万人以上がホームレスとなったといわれている。 アメリカなどへ移住するスコットランド人が増える。 |
1820年 | ジョニーウォーカーの前身ジョン・ウォーカー社が食料品店として創業。 |
1822年 | ハイランドとローランドの課税差別撤廃。密造に対しての罰金強化。 ジョージ4世がスコットランド訪問。禁制のグレンリベットを所望。 |
1823年 | 酒税法改正。合法的なウイスキー蒸留所の運営が可能なレベルとなる。 |
1824年 | グレンリベットが新酒税法のもと政府公認第1号蒸留所となる。 |
ウイスキーの産業化と発展
その後、産業革命の波がウイスキーにも押し寄せることとなります。
酒造産業が確立していき、近代的なウイスキー産業が始まっていきます。
連続式蒸留機の誕生とグレーンウイスキー
1831年、イーニアス・コフィのコフィ式スチル(連続式蒸留機)が誕生、実用化されます。
コフィはアイリッシュウイスキーを活性化させようとこの蒸留器を開発しましたが、アイリッシュウイスキー蒸留所には見向きもされませんでした。
彼の蒸留機に目を付けたのが、大規模産業化していたスコットランド・ローランドの蒸留所です。
連続式蒸留機によって軽くクリアなグレーンウイスキーが誕生。
個性的なモルトウイスキーとブレンドされ、世界中で人気となっていきます。
ブレンデッドウイスキーの誕生
19世紀以前のウイスキーは、今でいうとほとんどが「シングルモルト・シングルカスクウイスキー」。
同じ蒸留所であっても違う蒸留年のウイスキーをブレンドすることはできませんでした。
1853年に「同一蒸留所であれば、蒸留年の異なる原酒をブレンドしてもよい」と酒税法が改正されます。
そして誕生したのが、エジンバラの酒商アンドリュー・アッシャーの「オールド・ヴァッテッド・グレンリベット」です。
これが世界初のブレンデッドウイスキーとなります。
その後、1860年に「異なる蒸留所の原酒を保税倉庫内であれば、ブレンドしてもよい」ことになり、多くの酒商がウイスキーのブレンドを行うようになりました。
その中には……
- ジョニーウォーカーの創業者”ジョン・ウォーカー”
- バランタインの創業者”ジョージ・バランタイン”
- シーバスリーガルのシーバス兄弟
などなど
今日の世界的なウイスキーブランドの創業者たちが名を連ねています。
その後、安価で軽いグレーンウイスキーとモルトウイスキーをブレンドしたブレンデッドウイスキーが誕生。
程よく個性があり、バランスのいいウイスキーが人気となっていきます。
1846年に穀物法が改正され、安価なとうもろこしが大量に輸入されるようになったこともグレーンウイスキーが激増した要因にもなりました。
1877年、スコットランド・ローランド地区のグレーンウイスキー業者6社が集まり、”ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)”社を結成します。
このDCL社が世界最大のスピリッツ企業”ディアジオ社”の前身となる会社です。
ワインの悲劇フィロキセラがウイスキーにとって好機に
ブレンデッドウイスキーの誕生により徐々に人気となっていたスコッチウイスキー。
ところが、当時の上流階級の嗜好品はブランデーであり、その地位に昇ることはできませんでした。
19世紀後半、ワインの悲劇がウイスキーにとって好機となります。
アブラムシの一種であるフィロキセラによりヨーロッパ中のブドウの木が枯れてしまいました。
ワインはもちろんブランデーを作ることもできなくなり、ブランデーが入手困難となります。
その代わりとなる蒸留酒となったのがスコッチブレンデッドウイスキーでした。
コニャックと並んで世界的な蒸留酒として肩を並べることができ、その地位が確立されていきました。
ヨーロッパ共同体の法規制においても「ノーブル・スピリッツ(高級な蒸留酒)」の位置づけとなり、今でもイギリスの輸出産業の柱の一つとなっています。
1826年 | ロバート・スタインが連続式蒸留機を発明 |
1827年 | ジョージ・バランタイン社創業 |
1830年 | ウィリアム・ティーチャーズ社創業 |
1831年 | イーニアス・コフィが連続式蒸留機を発明。14年間の特許(パテント)を取る。 密造件数が14000件以上から693件に激減 |
1833年 | ローランドのグレーン蒸留所がコフィスチルを導入。 |
1837年 | ヴィクトリア女王即位 |
1846年 | 穀物法の撤廃。穀物の輸入が自由化される (前年からのアイルランドのジャガイモ飢饉の影響) |
1853年 | 同一蒸留所内に限り、熟成年数の異なるウイスキーのブレンドが許可される。 アンドリュー・アッシャーのブレンデッドウイスキー(グレンリベット)がリリース。 |
1860年 | 蒸留所の異なるウイスキーのブレンドが許可される |
1865年 | グレーンウイスキーにとうもろこしが使われるようになる |
1872年 | 岩倉使節団、スコットランドに入る |
1877年 | ローランドのグレーンウイスキー業者6社が集まり、DCL社を結成。 フィロキセラにより、ヨーロッパ中のブドウの樹が壊滅的な状況となり、ブランデー不足でスコッチブレンデッドの消費が伸びる。 |
ウイスキー不況
当時、政府公認第一号蒸留所として成功を収めていたグレンリベット。
その名前をほとんどの蒸留所が使うようになりました。
- アベラワー・グレンリベット
- グレンエルギン・グレンリベット
- オルトモア・グレンリベット
- グレングラント・グレンリベット
- ロングモーン・グレンリベット
- マッカラン・グレンリベット
などなど
その数は25にも及び、グレンリベットスタイルのモルトウイスキーを作る蒸留所まででき始めたほどでした。
創業者ジョージ・スミスは、裁判を起こすことを決定。
1884年に「The Glenlivet」と名乗れるのは、グレンリベット蒸留所だけという裁定が下りました。
この時、スコッチブレンデッドは英国中で大流行します。
現在のグローバルブランドの前身は、ほとんどはこの時期に誕生。
地方の小さな蒸留所たちが原酒を生産、ブレンダー・ブレンド会社が買い取り製品化、流通販売を行うブローカーがロンドンをはじめ英国中に販売していく……
といった流れが出来上がっていきます。
ブレンダー・ブレンド会社がどんどん成長していく一方で、ハイランドのモルト蒸留所のほとんどが小規模業者だったため、独自の販路を持つことが困難だったことでしょう。
そういった蒸留所はブレンド会社に売るためにモルトウイスキーを作り、生産拡大させるときもブレンド会社に頼るしかない状況でした。
ブレンド会社に頼り切りとなっていたウイスキー業界全体を崩すような大スキャンダルが発生します。
「パティソンズ事件」と呼ばれるパティソンズ社の倒産によって暴かれたブレンド会社の不正です。
横領・詐欺のほかに、良質なモルトウイスキーがごくわずかしか使われていないウイスキーをリリースしていました。
このスキャンダルが業界全体に飛び火。
多くの中小モルト蒸留所は連鎖的につぶれていきました。
ところが、この時DCL社はつぶれそうになっていた多くのモルト蒸留所を傘下企業として取り込み巨大組織へと成長していきます。
1879年 | ジェームズ・ブキャナン社(ブラック&ホワイト)が創業 |
1882年 | ホワイト&マッカイ社がウイスキー業界に参入 |
1883年 | ホワイトホース社が創業 |
1884年 | 「The Glenlivet」と呼べるのはグレンリベットだけと裁定が下る |
1885年 | ブレンデッド業者がDCL社に対抗してノース・ブリティッシュ・ディスティラリー(NBD)を結成し、同社の名前の蒸留所を建設 |
1887年 | アルフレッド・バーナードの「The Whisky of the United Kingdom」を出版。 スコッチ129、アイルランド28、イングランド4蒸留所を紹介 |
1893年 | J・A・ネトルトン「蒸留酒の製造について」を出版。現在も使われているウイスキー造りに関する装置が数多く開発される |
1898年 | パティソンズ事件。中小の蒸留所がつぶれていく中、DCL社は急成長。 |
「ウイスキーとは何か?」 法定義化と進む技術革新
1905年、ブレンデッドはウイスキーではないという「ウイスキーとは何か?」を問う論争が起こるようになります。
翌年には、ブレンデッドウイスキーは「ウイスキーではない」と主張するモルトウイスキー側に軍配が上がることとなりました。
その後も論争が続き、政府による審査が要求されることとなります。
1909年、ウイスキー論争に決着。
グレーンウイスキーおよび、ブレンデッドウイスキーはウイスキーであることが承認されます。
そして、酒税管理を関税主税局扱いとする組織が整備されました。
1915年、熟成2年間を法律で義務付けられ、翌年には3年間と変更されます。
1920年、アメリカで禁酒法が施行されます。
これによりアイルランドでは大打撃となりましたが、スコットランドでもウイスキーの街として栄えていたキャンベルタウンが衰退してしまうこととなりました。
1929年、世界大恐慌となり、ウイスキーの売れ行きも低迷します。
1942年、イギリス政府は、不況のスコッチ業界と外貨獲得のために生産を奨励。
1933年に廃止となった禁酒法により、アメリカでは飛ぶようにスコッチブレンデッドウイスキーが売れていたといわれています。
スコッチウイスキーをアメリカに売ることで、米ドルを獲得。1939年に勃発していた第2次世界大戦の戦費獲得の思惑もあったことでしょう。
何はともあれスコッチウイスキー業界は好転し、モルトウイスキー蒸留所の大幅な設備投資へつながっていきます。
1988年に従来の酒税法での定義ではなく、スコッチウイスキー法としてスコッチを定義化。
翌年には、EUの法律で承認されました。
1950年代からスコッチモルトウイスキーの蒸留所で最新の設備が普及していきます。
などなど
イギリス政府は、2007年にスコッチの定義に関する規定が厳密になることが発表。
2009年に生産地名称などを厳密にした現在のスコッチウイスキーの定義が法で規定されることとなります。
この法定義化は、スコッチウイスキーの保護と類似品の規制などが目的です。
2013年には、400ガロン以下の蒸留器が認められることとなり、クラフト蒸留所の参入がしやすくなりました。
そして今シングルモルトがブームとなり、クラフト蒸留所が数多くできています。
1905年 | 「ウイスキーとは何か」を問うウイスキー論争が始まる。 スコッチ蒸留所は徐々に減少し始める。 |
1906年 | ウイスキー論争、モルトウイスキー側に軍配が上がる。ブレンデッドウイスキーはウイスキーではないとなるが論争は続き政府による審査が要求される。 |
1909年 | ウイスキー論争、グレーンウイスキー側が勝利。グレーンウイスキーとブレンデッドウイスキーはスコッチウイスキーであると決着する。酒税管理を関税酒税局扱いとする組織が整備される |
1913年 | ティーチャーズ社、新タイプのコルク栓(現在、ウイスキーでよく使われている栓抜きの必要がないタイプ)を発明。 J・A・ネトルトン「ウイスキー及びスピリッツの製造法」を出版(竹鶴が参考書として活用していた)。 |
1915年 | ウイスキーの熟成期間を2年間に義務付ける。翌年には3年間に変更。 |
1918年 | 竹鶴政孝、スコットランドへ留学 |
1920年 | アメリカ禁酒法「憲法修正第18条」が発行。第1次大戦と禁酒法で多くの小規模蒸留所が閉鎖に追い込まれる。 |
1927年 | ビック5と呼ばれるブレンド会社がすべてDCL社の傘下となる。 |
1929年 | 世界大恐慌。 |
1939年 | 第2次世界大戦勃発。スコッチ蒸留所の多くは閉鎖に追い込まれる。稼働45か所のみとなる。 |
1942年 | イギリス政府、不況のスコッチ業界と外貨獲得のために生産を奨励する。スコッチウイスキー協会(SWA)発足 |
1949年 | 好調のカナダ酒造メーカー”シーグラム社”がシーバスブラザーズ社を買収。スコッチ業界へと参入してくる。 |
1950年代 | 木製発酵槽にかわりステンレス製発酵槽が採用。ダンネージ式熟成庫にかわりラック式が普及。 |
1952年 | エリザベス女王(2世)即位。関税酒税法でスコッチウイスキーが定義化される。 |
1986年 | ギネスグループがDCL社を買収。翌年にはユナイテッド・ディスティラーズ(UD)社に変更。 |
1988年 | スコッチウイスキー法で新たに定義化。翌年にはEUの法律で承認される。 |
1997年 | ギネスグループがグランド・メトロポリタン・グループと合併し、ディアジオ社が誕生する |
1999年 | スコットランド議会復活 |
2004年 | ディアジオ社とLVMH社の合併会社としてMHD(モエ・ヘネシー・ディアジオ)社が発足。マイクロディスティラリー計画が各地で動き始める。 |
2007年 | スコッチウイスキーの輸出量が過去最高に。 |
2009年 | スコッチウイスキーに関する厳格な規定が施行される。 |
2013年 | 400ガロン(約1800ℓ)以下の蒸留釜が許可される。 |
2019年 | スコッチウイスキーの定義が法改正。使用できる樽が定義化される。 |
(参考文献:ウイスキーコニサー資格認定試験 教本)
(参考文献:物語 イギリスの歴史 上下)
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