琥珀色の美酒、ウイスキー。
その神々しい色合いと複雑で深い味わいの裏には、重税や戦争などと密接に関わってくることはご存じでしょうか?
ウイスキーは、重税や戦争などに立つ向かううちに起きた奇跡のお酒とも言えます。
どのように乗り越え、そして現在の魅力的なお酒となっていったのでしょうか。
ウイスキーがもっと好きになる歴史の授業を始めていこうと思います。
ウイスキーの前に、蒸留技術の始まり
紀元前3500年ほど前の古代メソポタミア文明には蒸留は行われていたそう。
テぺ・ガウラ遺跡から蒸留で使われたと思われる土器が発見されています。
ただし詳しいことはわかっていないようですが、当時お酒の蒸留は行っていなかったそうです。
蒸留は香水や薬の造りなどがメインだったという説があります。
古代文明発祥の地からエジプト、ギリシャに伝わり、アジア、ヨーロッパへと伝わっていきました。
『蒸留』という技術だけは、紀元前からある技術です。
紀元前4世紀にギリシャのアリストテレスが「海水を蒸留すれば真水ができる」という記述も残しているそう。
ところが、「お酒を蒸留」というアイディアはなかなか出てきませんでした。
はじめにお酒を蒸留したといわれているのは中国です。
6世紀ごろには、中国の代表的な蒸留酒(白酒)の一種「汾酒」の記述が残っています。
この「汾酒」は今と同じ蒸留酒だったそう。
つまり中国はすでに1400年前からお酒の蒸留を行っていました。
一方ヨーロッパの方はなかなか「お酒」の蒸留にまでは至らなかったそう。
蒸留は神聖な行為・宗教的な行為という見方が強かったといわれています。
8世紀になり、アラビアの学者がお酒を蒸留器で蒸留した、「胸が熱くなる透明な液体(アルコール)」を発見します!!
この「胸が熱くなる透明な液体」は、中世ヨーロッパで錬金術師たちの研究対象に!!
- 「胸が熱くなる」=「生命に呼びかけ、活力を与える」
- 「透明な液体」=「水」
と考えられ、『Aqua-vitae(アクアヴィタエ):生命の水』と名付けられます。
この「生命の水」が様々な言語で翻訳され、様々な蒸留酒の名前になっていきました。
例:
- 「生命の水」⇒「ゲール語:uisge-beatha」⇒ウイスキー「whisky」
- 「生命の水」⇒「フランス語:eau-de-vie」⇒オー・ド・ヴィー「eau-de-vie」(フランスでのブランデーの呼び方)
- 「生命の水」⇒「スラヴ語:voda(水)」⇒ウォッカ「vodha」
などなど
ウイスキーも「生命の水」というゲール語「ウシュク・べーハー:uisge-beatha」から「ウシュケボー:uisgebaugh」
そして「ウシュク:uisge」、「ウスキー:usky」となり、
「ウイスキー:Whisky」と変わっていったといわれています。
ウイスキーの発見
1172年イングランド王ヘンリー2世がアイルランドに侵攻します。
この時、イングランド軍兵士から”アイルランドでは穀物原料の蒸留酒「ウスケボー」が飲まれていた”という報告がされたそう。
その報告が文献に残っているそうです。
そしてこれが穀物原料の蒸留酒が初めて出てきた文献。
この文献からアイルランドがウイスキーの発祥の地といわれています。
ちなみにここから アイルランドはイングランドの支配下、ほとんど植民地状態となってしましました。
ただ、蒸留技術は北のヴァイキングたちから伝わったという説もあり、スコットランドが先と考えている人もいるそうです。
どちらが先かの議論はいまだに続いていますが、中世の時代には大麦などの過剰分で蒸留酒がつくられていました。
スコッチウイスキー元年
1494年スコットランド王室財務係に
「王命(ジェームズ4世)により修道士ジョン・コーに8ボルの麦芽を与えてアクアヴィテを造らしむ」
という記録が残っています。
「アクアヴィテ」とは、ラテン語の「生命の水」が語源の古いウイスキーの呼び名です。
この記録が初めてウイスキーが歴史上に出てきたもので、この年をスコッチウイスキー元年とされています。
アクアヴィテ(ウイスキーに似たもの)を造らせるよう命じた当時の王・ジェームズ4世。
スコットランド史の中でも数少ない賢王だったといわれています。
この文章の話はウイスキーの資料でよく出てきますが、
ジェームズ4世について詳しく書かれたウイスキー関連の記事ってなかなかないですよね。。
そこでこのシェームズ4世について詳しく見てみようと思います。
ジェームズ4世
ジェームズ4世は、この時代のスコットランド王家 ”スチュワート家”の中で、
最も寛容さと温情があり、冷静な政治力と高い学力を持っていた理想的な君主だったといわれています。
ジェームズ4世の前王”ジェームズ3世”は、アンガス伯が起こした反乱によって命を落としてしまいます。
そのため、15歳でスコットランド王に即位したジェームズ4世。
すぐにアンガス伯が起こした反乱を即座に鎮圧、領土を没収しました。
ただ15歳にしてジェームズ4世は、アンガス伯に対して賢明で寛大なを処分を下します。
没収した領土とは別の新しい領土をアンガス伯に与えます。
さらに2年後には、宰相に取り立てたそう。
ジェームズ4世の寛容な対応にアンガス伯も感激し、忠誠を誓ったそうです。
よっぽどアンガス伯の能力が高かったというのもあると思いますが、
能力に対して正当な判断を下す器がすごいなと思います。
またジェームズ4世はゲール語を含め8か国語以上を話せ、音楽などの文化・芸術や医学にも深い関心がありました。
そしてジェームズ4世はアバディーン大学を創設。
この大学は、当時イングランドにもなかった医学部を設立しています。
さらに内政面・軍事面でも様々な設備を整えたり、高い攻撃力を持った戦艦を用意し海軍力を強化したりしました。
ところが!!!
そんな賢王ジェームズ4世もイングランド関係だけはどうすることもできません。
イングランド王ヘンリー7世の娘マーガレットと結婚。
イングランド、スコットランド間で平和条約を締結しますが、すぐにヘンリー7世が死去。
イングランド王ヘンリー7世が亡くなってから、歯車が狂い始めてしまいます。
ヘンリー8世が即位したとき、フランスがイタリアのナポリを占領してしまいます。
しかし、ローマ教皇ユリウス2世がそれをよく思っていませんでした。
イングランド・神聖ローマ帝国・スペインを巻き込んで対フランス神聖同盟を結成します。
これにより、フランスとイングランド間で争いが起きます。
フランスとスコットランドは、古くから同盟関係にありました。
イングランド王と戦った歴代スコットランド王は大体フランスに亡命したり、フランスからの援助も受けています。
この戦いでスコットランドは、和平を結んだばかりのイングランドと古くからの同盟国フランスとの間で板挟み状態になってしまいました。
ジェームズ4世は、2国間の橋渡しになれるように尽力します。
しかしそれもかなわず、最後にはフランス王ルイ12世に従いイングランドに進軍することとなってしましました。
賢王のジェームズ4世がイングランドに進軍する
ということで、スコットランド各地からは過去最大の4万という兵が集まります。
その大軍勢でイングランドに攻め込みました(フロドゥンの戦い)。
ところが、
ほぼ半分の兵力でも統率の取れたイングランド軍に、元々統一感のないスコットランド軍は大敗。
その「フロドゥンの戦い」でジェームズ4世は戦死してしまいます。
その翌年フランス王ルイ12世とイングランド王ヘンリー8世は和解。
間に挟まれたスコットランドは、
優秀な君主を失い、
兵力も大量に失い、
そしてまた政治は混乱していくという一番の被害者となってしまいました。
スコットランド史の中でも賢王といわれている「ジェームズ4世」の最後がこれとは……。
スコットランドは、特にイングランドとフランスの関係に巻き込まれ続けた国。
他にも多くの王がこの2つの国の影響で命を落としています。
ウイスキーの語源
元々ウイスキーはアイルランドの「ウスケボー」やスコットランドの「アクアヴィテ」といった呼び方で呼ばれていました。
両方とも「命の水」という意味です。
それでは、いつから「ウイスキー」と呼ばれるようになったのでしょうか??
「ウイスキー」という言葉が初めて英語表記で出てくるのは、
1715年発行の「スコットランド落首集」という文献が最初だといわれています。
そこには
「スコットランドにはウイスキーという名の酒があり、それは脳を狂乱させる。」
と書かれていたそう。
これはのちに発行される『オックスフォード英語辞典』の中で明かされた内容だそう。
そのため、信憑性は低く、詳細までは定かではありません。
より確かな説は、1736年の書簡(手紙?)や1755年刊の英語辞書に書かれた内容が始めてだという説があります。
その1755年の辞書には、
「ウシュク・ベーハは芳香植物を使った蒸留酒であり、……ハイランドのものは刺激的で、スコットランド語に転じてウイスキー呼ばれている」(ウイスキー文化研究所 ウイスキーコニサー資格認定試験 教本より引用)
と書かれていたそうです。
つまり、ウイスキーは元々「ジン」に近い蒸留酒だったということ!!
この当時は「熟成」という概念はありませんでした。
そのままでは、荒々しく飲みにくいスピリッツにハーブや果物、スパイスなどの香りをつけて楽しまれていたといわれています。
その味わいを再現したのが、「リンドーズ・アビー アクアヴィテ」という銘柄のお酒です!!
リンドーズ アビー アクアヴィテ 700ml 40度 リキュール スコットランド LINDORES ABBEY AQUA VITAE
加糖されているのか甘みがあり、そしてジンシャーのスパイス感が特に強いです。ソーダ割にするとかなり飲みやすいかも。ちなみに、上で紹介した『ジェームズ4世』がアクアヴィテを造るよう命じた修道士”ジョン・コー”がいたのが、リンドーズ・アビー修道院といわれています。
そのリンドーズ・アビー修道院跡地にできたのが、「リンドーズ・アビー蒸留所」。
その蒸留所で造られているお酒です!!
重税というウイスキーの暗黒の歴史
1603年、当時のスコットランド王”ジェームズ6世”は、イングランド王後継者不在によりイングランド王に即位。
イングランド王ジェームズ1世となります(同君連合)。
そのため、次期イングランド王に当時のスコットランド王が選ばれたわけです。ただ、イングランド王家の中に今まで「ジェームズ」の名のものはいなかったため、イングランド王となった時「ジェームズ1世」という名に変わりました。
これがのちのジョン・ヘイグ社、そしてブレンデッドウイスキー「ヘイグ」となっていきます。
ところが!!
1707年、スコットランド議会が廃止。
スコットランドは、完全にイングランドに併合されてしまいます。
するとイングランドの麦芽税がスコットランドにも課せられるようになりました。
麦芽税に酒税とかなりの重税に苦しまれたスコットランドの蒸留所。
ローランドに集中していた大規模蒸留所は麦芽比率を減らしたグレーンウイスキーを、
ハイランドに多かった小規模蒸留所はモルトウイスキーの密造を始めます。
樽熟成の始まり
イングランドへ併合されたことにより、スコットランドのウイスキー造りに『密造酒』の時代が訪れます。
特にハイランドの密造業者たちの中では、「ウイスキーを造る」という目的より、
「イングランド政府への反逆心」
「スコットランド人としてのこだわり」
こういった面からウイスキーを造っていたところも多かったそう。
イングランドから虐げられていたスコットランドの民衆。
絶対にイングランドに従いたくなかったんでしょうね。
ただハイランドの密造業者たちは、作った密造酒を隠さなくてはいけませんでした。
そして、当時イギリスでは、シェリー酒が大人気でした。
今でもシェリー酒の大消費国はイギリスです!
スコットランドの港にもたくさんあったシェリーの運搬用の空き樽があったそう。
密造業者たちは、そのシェリー運搬用の空き樽にウイスキー詰めて保管し、隠していたそうです。
そしていざ飲もうとしたら、保管前は荒々しかったお酒が香味豊かで口当たりまろやかな琥珀色の美酒へと変貌を遂げていました。
これが「ウイスキーを樽で熟成させる」ということの始まりといわれています。
しかしこの説の否定派も多いようです。
この頃にはすでにワインやブランデーで樽熟成の効果は知られていました。
当然樽熟成の知識も、貴族や上流階級の間ではすでに広まっていたといわれています。
つまり、ブランデーやワインに倣った製法のウイスキーもこの当時あってもおかしくなかったのではないでしょうか??
様々な説がありますが、このぐらいの時代から「ウイスキー」に樽熟成という概念が生まれていきました。
ただ「イングランドへの抵抗の証である密造酒から樽熟成のウイスキーが生まれた説」のほうがロマンを感じます。
ウイスキーは元々『密造酒』!?
ウイスキーの歴史 密造酒時代について
密造酒時代 そしてバーボンウイスキーの誕生
1707年にスコットランド議会が廃止され、ウイスキーの酒税が重税になってから幕を開けた「ウイスキー密造酒時代」。
その密造酒づくりは、イングランドの支配が強くなればなるほど盛んになっていきます。
1777年には、公認蒸留所が8件に対して密造所は400以上との報告もあったそう。
また、公認蒸留所は、高い税金を払ってスコットランド人たちから嫌われるという現状だったそうです。
中には、焼き討ちにあったり、襲撃されたりした公認蒸留所もあったといわれています。
また、当時はスコッチウイスキーよりアイリッシュウイスキーの方が人気でした。
ロシアの初代皇帝ピョートル大帝が「すべての酒のうちでアイルランド産のものが最高である」という言葉も残しています。
しかしアイルランドも1801年にイングランドに併合されると密造酒がピークとなりました。
また、1600年代以降から新たに発見されたアメリカ大陸へ移住するスコットランド人やアイルランド人も多かったそう。
1717年、アメリカのペンシルベニアやメリーランドなどに移住した”スコッチ・アイリッシュ”によって
穀物原料のウイスキーが造られるようになったといわれています。
1775~83年アメリカ独立戦争。
1783年にウェールズ移民の”エヴァン・ウィリアム”が初のウイスキーを製造(正式な記録としては)。
1789年に、スコットランド移民の牧師”エライジャ・クレイグ”がトウモロコシ原料のウイスキーを造ります。
これがバーボンの元祖となり、エライジャ・クレイグのことは”バーボンの祖”と呼ばれるようになりました。
ところが、1791年、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンは、
独立戦争後の国家財政を安定させるためにウイスキーに課税します。
これにより、ウイスキーを生産していた農家たちは暴動を起こします。
独立戦争の時よりも多い軍を派遣して、暴動を鎮圧したアメリカ政府。
結局ウイスキーに課税されることとなり、税金を嫌ったウイスキー生産者たちは、
アパラチア山脈を越え、ケンタッキーやテネシーでトウモロコシ原料のウイスキーを造るようになりました。
また、大麦やライ麦を求めたウイスキー生産者たちは、未開の地「カナダ」へ北上。
カナディアンウイスキーの礎を築いていきます。
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密造酒時代の終わり
長く続いた密造酒時代も、イングランド王ジョージ4世によって終わりを迎えます。
イングランド王ジョージ4世は、大の酒好きと浪費家として有名だったそうです。
あまりの浪費家に、イングランド国内ではあまりよく思われていなかったといわれています。
そんなジョージ4世、スコットランドのウイスキーを気に入ってしまいます。
スコットランドの有名な文学者ウォルター・スコット(叙事詩『湖上の美人』の作者)の勧めで、スコットランドに訪問します。
つまり、蒸留所見学です!!
「禁制のグレンリベットをご所望した」と記録があります。
もちろん当時のグレンリベットも密造酒でした。
ジョージ4世のスコットランド訪問したとき、スコットランドの港リースについたジョージ4世は、
スコットランドの民族衣装・キルトを身にまとい、片手にウイスキーという姿で登場したといわれています。
ウイスキーの課税をやめたい人たちにあれよあれよを渡され、はめられたか……(笑)。
スコッチウイスキーの魅力にどっむりハマり、
イングランド王が禁制のお酒をスコットランドの民族衣装で楽しんでいた姿を激写(記録)されます
このスクープにイングランド政府は頭を抱えてしまいました。
そしてこの訪問がきっかけで酒税法を改正。
税率が落とされ、合法的にウイスキーが作りやすくなりました。
これにすぐに飛びついたのがもちろんグレンリベット蒸留所!
政府公認第1号蒸留所となります!!
これには最初こそ周りの蒸留所は否定的でした。
創業者ジョージ・スミスは、命を狙われることも多かったそう。
常に護身用に拳銃を持っていたそうです。
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しかしグレンリベットの成功を見ると、周りの蒸留所も後に続くようになります。
ついには自分たちの蒸留所名を勝手に「グレンリベット・○○」や「○○・グレンリベット」のようにグレンリベットをつけはじめました。
後の裁判によって本家グレンリベットが勝利。
多くの蒸留所がグレンリベットの名前を外しました。
ただ、リベット川沿いの蒸留所は今でも正式に名乗ることができるため、
正式名称は「○○・グレンリベット」と名乗っているところもあります。
この酒税法改正後、スコッチウイスキーは飛躍的に発展していきました。
スコッチウイスキーの発展
連続式蒸留機の発明
1831年、アイルランドの元税務官イーニアス・コフィーが連続式蒸留機を発明します。
この蒸留機は、コフィー自身がアイルランドのウイスキーに貢献しようと、
多くの人に使ってもらえるように特許(パテント)を取りました。
このためパテントスチルとも呼ばれています。
ところが!!
アイルランドの蒸留所の人々は穀物を3回蒸留するスムースで飲みやすいポットスチルウイスキーに誇りをもっていました。
そのためコフィー式蒸留機には目もくれません。
この蒸留機に目を付けたのが、スコットランドのローランドのグレーン蒸留所とジンメーカー。
連続式蒸留機ではニュートラルなスピリッツを連続的に生産することが可能になります。
様々な穀物を使うグレーンウイスキーやボタニカルの風味を生かしたいジンには理にかなった蒸留機でした。
コフィー式スチルを採用したことで、
スコットランドのグレーンウイスキーは一気に雑味の少ない原酒を作ることができるようになりました。
そしてグレーンウイスキーと個性的なモルトウイスキーを混ぜたブレンデッドウイスキーは、たちまち人気となっていきます。
フィロキセラ
1860年頃からブドウの根を枯らす害虫フィロキセラがヨーロッパ全土を襲いました。
ヨーロッパ中のブドウの木が枯れ、ワインもブランデーの作れなくなります。
この時代、ヨーロッパの貴族たちはみな蒸留酒といえばブランデーだったそうです。
当時のウイスキーはクセの強い片田舎の地酒という感覚でした。
ブランデー飲めなくなったことで、仕方なくウイスキーが飲まれるようになります。
ところが、ちょうどこの時 バランスがいいブレンデッドウイスキーが登場します。
スコットランドの地酒程度でしかなかったスコッチウイスキーが、
ヨーロッパ中、そして世界中で人気となります。
今の人気銘柄となるブレンデッドウイスキーもこの時数多く誕生しました。
そして、スコッチウイスキーが蒸留酒の王様としての地位を獲得していきました。
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また、1861年アメリカ南北戦争 勃発。
1865年に終結した南北戦争で、北の資本がケンタッキー州に流れ込み「バーボンウイスキーの企業化」が進みます。
そして連続式蒸留機がバーボンにも導入され、禁酒法が制定されるまで『バーボン黄金時代』が訪れました。
1900年以降 ウイスキーに再び暗い時代が訪れる
1900年以降、この時代は再びウイスキーに暗い時代が訪れました。
1900年以降のスコットランドのウイスキー事情
1900年代まで、イギリスのスコットランドブームやブレンデッドウイスキーの発展のため、ウイスキー業界内は大きくにぎわっていました。
しかし、ある事件を皮切りにスコッチウイスキー界の闇があるみとなってしまいます。
その事件とは「パティソンズ事件」。
ウイスキーブレンダーとして有名だった企業の大きな不正により、ウイスキー業界内に大きな波紋を呼びました。
そして、ウイスキーへの不信感が募り、また膨れすぎたスコッチウイスキー業界は供給過多の状態になってしまったため、
「ウイスキー不況」が訪れました。
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1900年以降のアイルランドのウイスキー事情
1900年代、アイリッシュウイスキーはピークを迎えていました。
しかし、1916年のイースター蜂起、1919年の独立戦争からアイリッシュウイスキーの状況は一変します。
アイルランドは見事独立しますが、大英帝国 商圏からアイリッシュウイスキーが締め出されてしまいます。
さらに、アメリカ禁酒法が制定。
唯一の市場だったアメリカ市場も失ってしまい、
アイリッシュウイスキー産業は長いこと低迷してしまうこととなってしまいます。
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1900年以降のアメリカのウイスキー事情
1900年以降アメリカでも『バーボン黄金時代』となっていましたが、その一方で禁酒運動がどんどん激化していました。
ついに1920年からアメリカ禁酒法が制定され、
禁酒法時代へと突入していきます。
この法律は、アルコール飲料の生産・飲用はもちろん所持・流通も禁止されました。
これにより密造酒や密造業者が増加。もぐり酒場なども数多く誕生しています。
そんな密造業者ともぐり酒場をつないでいたのが「ギャング」たちです。
ギャングたちが暗躍し、治安は悪化。
飲酒量は禁酒法が施行されてから逆に増加したといわれています。
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また、アメリカの北の国「カナダ」はアメリカへのウイスキーの輸出をやめませんでした。
そのため、カナディアンウイスキーは飛ぶように売れ、アメリカ禁酒法時代に巨額の富を得ます。
対してウイスキーを造ることを禁止された元々公認の蒸留所は、次々に閉鎖、倒産していきます。
1933年に禁酒法は廃止されますが、13年近くという長い期間の禁酒法がすべてのバーボンなくしてしまいました。
そこからバーボンウイスキーが復興したのは、しばらく先となってしまいます。
そしてウイスキーブームへ
スコッチウイスキーも、バーボンウイスキーも世界恐慌や第二次世界大戦の影響を受け、しばらく不況の状態が続きます。
ところが、第二次世界大戦中から徐々に流れが変わっていきます。
まず、第二次世界大戦中の1942年。
イギリス政府は不況のウイスキー産業と外貨獲得のためにスコッチウイスキーの生産を推奨し始めます。
特にアメリカに多く輸出し、アメリカでブレンデッドスコッチウイスキーが人気となっていきます。
この時はまだ禁酒法明けのダメージが残り、バーボンウイスキーの種類は少なかったそう。
そのため、スコッチの人気に火が付きやすかったという見方もあります。
その後、第二次世界大戦後のアメリカ好景気で、バーボン業界も大きくにぎわっていきます。
さらに禁酒法時代に巨万の富を得たカナディアンウイスキーの企業は、スコッチ業界やバーボン業界に多く参入。
特にカナダのシーグラム社がシーバスブラザーズ社を買収したのは大きなニュースとなります。
また1940年代後半から徐々にウイスキーの定義化が始まります。
スコッチウイスキーは1952年に関税酒税法で定義化。
アメリカでは、1948年連邦アルコール法が制定。それぞれのウイスキーの定義が決まっていきます。
アイリッシュウイスキーでも1950年から法で定義が定められていきます。
それからスコッチウイスキーも1988年にはスコッチウイスキー法が制定、翌年EUでも承認されます。
このぐらいの時代からようやく「ウイスキー」が国の法律で守られるようになりました。
また1960年代から徐々にモルトウイスキーの人気が高くなっていきます。
そして2000年代に入ると世界的なモルトウイスキーブームから
高品質 小規模生産のクラフトウイスキーが人気に。
現在のウイスキーブームへと続いていきます。
最後に……
最後までお読みいただきありがとうございます。
今回のお話いかがだったでしょうか??
ウイスキーは今大きな時代の変換地点にいると思います。
今までブレンデッドウイスキーが人気だったのですが、徐々にそのもととなるモルトウイスキーへの関心が高まっています。
この流れは、ウイスキーに限った話ではないです。
例えば、チョコレートでも今 明治の「ザ・チョコレート」シリーズのように「産地」に目が向けられています。
また、スーパーでも「○○さんの玉ねぎ」や「○○農園の人参」といった食材もよく見かけるようになりました。
ウイスキーのこのブームが一時のブームになるのかどうかは、わかりません。
ただ、今だからこそ、興味の持てる面白いウイスキーの情報を配信していきたいなと思います。
それでは、良いウイスキーライフを!!
また次回もよろしくお願いいたします!!
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P.S.
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ウイスキーをこれから知りたい、ウイスキーについて詳しくなりたい方
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